受付時間 10:00~19:00(土日を除く)
1. 一つのメッセージにつき一つの言い方で
2. 詳細型の弊害
3. フィードバックを健全に受け取る
4. 根本治療
5. 思考の旅
6. 粒感
7. 算数から「全体→詳細」を学ぶ
8. 「NLPと私」プレゼンテーション
やっと終わった。
プラクティショナーコース→マスターコースへと進み、なんとか修了したiWAM。
マスターでは私含めて3人受講していたが、他の男性受講者は楽しそうにやっているのに
私は顔をしかめてばかりいたように思える。
言葉を扱うから楽しそうと思って受講してみたのに
マスターで待ち受けていたのは、苦手なデータの読み取り。
そして、得意と思っていた言葉もiWAMの世界ではうまく使えないで苦しかった。
英語と日本語のいったりきたりを繰り返してきて30年。
一つのメッセージを聞き手に理解してもらうのに、次々に言葉を言い換えて伝えるクセがついていた。
言葉巧みに話すことが心地よい、私ってすごい、とこれまで思ってきたが、iWAMの世界に入り、その思い込みにメスがはいった。
講師から
一つのメッセージにつき一つの言い方で
と言われ
「・・・」
頭では理解したつもりでも、潜在意識は大抵抗をする。
トライして成功したのもつかの間、次にはクセが優勢になり、つい言い換えている自分がいる。
そして指摘され、へこみ、またつい言葉を言い換えて、また指摘される。
この状況をどう改善しようかと頭を悩ました末、自分のアレンジは加えず
マニュアル通り、完璧に暗記し、暗記したとおりに実践することにした。
すると、仲間から
「よかった~、違和感なく言葉がすーっと入ってきて、自分に集中できた」
と言われた。
そんな短時間で潜在意識は変わらず、せっかくお褒めの言葉をいただいても完全にマスターしたわけではないので気持ちはモヤモヤ。
その後、なんとか数々の試験に合格し、マスター資格を取得。
きつすぎる講座だったが、大きな学びになった。
世の中にはいろいろなタイプの人間がいることは、これまでの脳科学・心理学の学びでさんざん学んできた。
わかったつもりでいたが、人に情報を伝えるという状況においては、ちっともわかっていなかった。
いろいろなタイプの人間がいるということは、聞き方も人によっていろいろ。
「一つのメッセージにつき一つの言い方」
あまりいろいろな言葉を使うと、聞き手は混乱する。
これを体得するにはもう少し時間がかかりそうだが、トライし続けていくしかない。
2023年12月
iWAMの世界では「詳細型」と「全体型」の認識スタイルがある。
人が情報を入手するとき、事細かく理解し、事細かく説明しないと気が済まないのが「詳細型」。
一方、大枠で、ざっくり把握し、ざっくり説明するのが「全体型」。
私は詳細型だ。
30年以上、英語に携わってきた。
英語を学んで、人に教えるという行為は、まさに詳細型。
一文一文虫眼鏡で見るように分解し、細かく把握してきた。
認識スタイルは人間の成長過程でいつ発生するものなのかiWAM講師に聞いたところ、「わからない」という答えがかえってきた。
だから私の場合、元々潜在意識に詳細型の要素があって、英語に取り組もうと思ったのか、
英語を学んでいるうちに詳細型になったのかはわからない。
詳細型は全体型の言っていることがざっくりすぎてよくわからない。
全体型にとっては詳細型の説明は細かすぎてうざい。
だから時に、詳細型 vs 全体型 の戦いが繰り広げられることになる。
私(詳細型) vs 弟(全体型)
親切心で、道順を詳しく説明しているのに、「あ~、あ~」と真剣に聞いているようには思えない弟。
この時は弟にとても腹が立った。しかしその後、弟が全体型ということがわかり、納得。
詳細型で生涯とおそうと思っていた私だったが、全体型を試さざるをえない局面が訪れた。
ある日、カナダ国籍の夫の健康保険を入手しようと市役所に向かった。
受付に着くと早速私は、夫が日本に上陸してからそれまでの壮大な物語を事細かく語り始めた。
聞き手の職員はというと、きびしい表情で下を向き、こちらと目も合わせない。
そうするとこちらだって気持ちよく話せない。
ええい!戦略変更!
学習した全体型でいってみよう!
「要は、健康保険がほしいんです!」
「わかりました」とその女性。
目の前で状況がどんどん動いていく。
これにはびっくりした。
全体型の世界、すげー!
今までの詳細型の労力はなんだったのか、と拍子抜けした。
以来、必要なときには全体型をトライしている。
気持ち悪さは残るが、全体型の素晴らしさも知ってしまった以上
詳細型だけの世界には戻れなくなってしまった。
2024年3月
現在、NLPのマスタープラクティショナー コースを受講している。
スピーチ塾のためという目的で受けてみたのに
結局自分のあり方を探ることになっている。
プラクティショナーコースとマスターコースの違いの一つとして気付いたのは
マスターコースでは仲間から自分に対してネガティブなフィードバックも受ける機会があることだ。
スピーチ塾に入ったわけではないのに
毎回2分のスピーチをさせられ
仲間からフィードバックを受ける。
スピーチ塾を運営している私にとっては
とてもラッキーなことだったが、自分のネガティブな部分に
向き合うことはなかなかきついものもある。
「怖い」、「やっつけ」
ある日の講座ではこのように言われた。
「怖い」は自分でも自覚があったため、すんなり受け入れられた。
「やっつけ」に関してはかなり心にひっかかった。
私としては内容をよくよく考えた後話し、「やっつけ」でやっている意識はなかったからだ。
なぜ彼は私に「やっつけ」と言ったのか・・・
考えていくうちに、前にも似たようなことを言われたことを思い出した。
「話し方が雑で違和感」
以前セミナーに登壇した時、受講生の一人からいただいた感想だ。
NLPマスターコースで
「怖い」と言われた時に、別の人からは
「明るい」、「おもしろい」とも言われた。
「やっつけ」と言われた時には、別の人から
「エネルギッシュ」「パワフル」「豪快」とも言われた。
セミナーで
「雑」と言われた時も
「言葉がたくみ」「ためになった」とも言われた。
物も人も中立。
同じ現象なのに世の中には
それをポジティブにとる人もいれば、ネガティブにとる人もいる。
「何かを表現したとき、世の中からフィフティーフィフティー50/50(ポジティブ50、ネガティブ50)の
反応をもらえれば、それは良い結果」と昔テレビ局にいた時プロデューサーに言われた。
NLP的に解釈すると、私に対して「怖い」と言った人は、その人の中の「怖さ」を感じるフィルターが
私を見て、私の言うことを聞いて、感じて、働き
「やっつけ」と言った人はその人の心の中に「やっつけ」があり
そこが反応したわけである。
ということは逆に、人の私に対するフィードバックを私がどう捉えるかも私次第なのだが
「想いを広く多くの人に伝える」ということをこの世の使命と感じている私のフィルターを通すと
私に対してネガティブに感じる人も味方につけて、その方たちにも想いを届けたい。
だからネガティブな意見も健全に受け取って対策をうたなければと思った。
「怖い」、「やっつけ」、「雑」
どうしてそこのような印象が伝わるか考えた。
3点浮かんできた。
まずは、声。
昔から通りすぎる。その上ボリュームがある。要するに声がでかくてよく通ってしまう。
そしてIWAM(アイワム)の試験結果によると
私は権力重視の意識が高い。
なんでも自分でコントロールしないと気が済まない。
さらに、自分の発しているエネルギーが強い。
これらは自分では普通と思っている。
誰にも迷惑をかけていないと思い、押し通してきた。
しかし、声、権力重視、エネルギーをそのまま出すと
強すぎると思う人がいることがわかった。
「やっつけ」や「雑」に感じる人がいることもわかった。
他人が認識している「私」と自分が意識している「自分」の間で差がある。
この差があることに気付かずに生きている人
つまり、自分が言っている、やっていることが絶対に正しいと思って生きている人を「残念な人」と
自分ブランド革命プロジェクトのトレーナーが言っていた。
他人が認識している「私」と自分が意識している「自分」の間には差がある。
このギャップを埋めるには
他人が認識している「私」を他人に言ってもらって、その指摘を私が健全に受け取るしかない。
人からのフィードバックを健全に受け取る。
スピーチメンタルトレーナーとして
人にスピーチ術を教えるだけではなく
自分自身のスピーチを確立することも重要。
ここからは自分の潜在意識との闘いだ。
いかに安全領域を出て、もっと広い世界に勇気をもって飛び込めるか。
マスター最終日には10分のプレゼンが待っている。
人前で話すときに、エネルギーを出す部分と
出さない部分をコントロールする。
試練だな~
2024年8月
顔が歪んでいることに気付いたのは、録画した自分のスピーチ姿を見たときだった。
右唇が下がっている
すると、右唇ばかり気になって内容が入ってこない。
まさにメラビアンの法則。
メラビアンの法則とは
人が人とコミュニケーションをとる際
言語情報、聴覚情報、視覚情報がそれぞれ
7%、38%、55%の割合で
相手に影響を与えるという心理法則である。
整体院に行った。
ボキボキされることを想像していたが、ボキボキは一切なく
さすったりちょっと押したりを繰り返し
その都度鏡で理想と現状のギャップを見せられ
歪みがどこからきているのか丁寧に説明された。
「皆さん、肩こりだったら肩をマッサージし
腰痛だったら腰をマッサージするのですが
根本的な原因を解決しない限りは解決しないんですよ。
雨漏りしているのに床の掃除ばかりしていても
なんの解決にもならないんです」
なるほど、比喩表現か。
比喩表現は、わかりにくい内容を聞き手にわかりやすいものにする。
プラス
比喩表現を使うと話し手の言いたいことが聞き手の潜在意識にまで入っていくので
聞き手に拒絶の余地を与えない。
聞き手が無意識に納得してしまう手法である。
先生はその後も立て板に水のごとく(比喩)
説明を続けた。
こちらが一言聞くと十くらいの勢いで返してくれる。
整体師を27年やっているそうだが、その経験からくる知識は圧巻だった。
そして2時間後には
「左側の骨盤が前に出ています。鏡を見て今どうですか。
始める前と比べて
両肩の位置が変わりましたね(Yes!)
今右肩痛くないですね(Yes!)
目の大きさ変わりましたね(Yes!)
右頬のふくらみが消えてスッキリしましたね(Yes!)
根本治療をしてみませんか(Yes!)
いつやるんですか?」
「今でしょ!」
こぶしをふりあげていた。
まるでどこぞの国のカリスマリーダーと
その演説に雄たけびを上げる国民。
なんの抵抗もなく10回コースに申し込んでしまった。
「根本治療」
これはスピーチについて考えるとき
まずは自分の心を見直そうという私の考えと一致していた。
自分のスピーチの違和感を払拭するためには
ただ場数を踏めばいいというものではなく
ただテクニックを身につければいいというものでもない。
何らかの心理的根本原因を取り除かない限りは
スピーチへの違和感はずっと続く。
施術後
体が軽くなってスッキリした。
心は
巧みな比喩表現と怒涛のYesセットトークに圧倒され、複雑だった。
これから3か月、体がどう変化していくか
そして先生の更なる爆裂トークが楽しみだ。
2024年9月
整骨院2回目。
雑談の中で、ピアノや英語の話になった。
「アスラーさん、ピアノ弾けて、英語やってきたんですね。
じゃ、この人(有名なアーティスト)聞いてみてください。
独学でピアノと英語を習得したそうで
イケメンで天才です。
動画URL送りますね」
整骨院を後にしてから1時間後にURLが送られてきた。
早速聞いてみた。
「・・・」
違和感しかない。
いや、たまたまだ。別のも見てみよう。
「・・・」
動画を観れば観るほど嫌いになっていく。
1時間観た後は、生理的に嫌いになっていた。
もう二度と観たくない。
アーティストのことを大絶賛していた整骨院の先生に「ダメでした」と言うのも気が引け、
かといってせっかく送っていただいたのに既読スルーも失礼だと思い
「テクニックばかり磨いてきた私にはレベルが高すぎて理解できませんでした」
とやんわり返信した。
しかし心が晴れない。
この嫌悪感は何なのか・・・
口直しならぬ、耳直し、目直しに
大好きなジャズピアニスト、上原ひろみの動画を久しぶりに観てみた。
鳥肌が立った。
彼女の超絶早弾き技巧に釘付けだった。
1回では飽き足らず
その後何度となく繰り返し観た(手の動きを)、聞いた(透き通った音を)。
毎回心が震えた。
心が震える=感動
感動するとはどういうことか調べると
「期待を超える」
というものがでてきた。
上原ひろみはいつ観ても聞いても期待を超える。
イケメンアーティストはどうだったか。
英語の曲をカバーしている映像を観たが
まるで英語が聞き取れなかった。
カバーするなら英語の発音をもっと大事にしようよ。
確かに曲の世界観に合わせて
会話ではしないような発音で歌うネイティブもいる。
しかし言葉として聞こえる。
基本の発音ができているからだ。
当たり前だ。
原形がないほど崩されたらメッセージが誰にも伝わらない。
それは自己満足の世界。
イケメンアーティストのピアノに関しては
独学にしてはすごいと思った。
でも世の中に出れば上には上がいる。
聞き手は、その人が独学だからという理由で
感動するのではない。
ここまでがっかりさせられると
顔だってイケメンには見えなくなる。
逆もありで、その人がものすごく秀でたものをもっていると
顔だってイケメンに見えてくる。
私の何がイケメンアーティストに対してここまでネガティブに反応しているのか。
感情を動かしているのは
突き詰めれば、ビリーフ(思い込み)だ。
あっ。
私が人生かけて頑張ってきたことを否定されたように
私が勝手に感じているからだ。
これは以前、「英語について」のブログで「ネイティブって一体」
でも書いている。
またしてもこれにひっかかるとは。
幼少期、そして若い時期に打ち込んだことは
その後の人生に多大なる影響を与える。
私は5歳から15歳までピアノ教室に通い
家では毎日ピアノを練習してきた。
15歳でショパンの「幻想即興曲」を弾けるようになり
ショパンの「革命」もなんとか弾けるようになった。
英語学習は大学受験勉強から始め
大学入学後も必死で勉強し
留学もし、アメリカで1年就労後帰国。
通訳、通訳ガイド、英語講師をやってきた。
この経験で得たビリーフがアーティストにネガティブに反応し
もう二度と観ないという行動につながっている。
やっと胸のつかえがおりた。
おまけとして
ポジティブな気付きもあった。
スピーチや今後の人生を考えるにあたり
これまでピアノや英語で培った自分のあり方を変えようかと思っていた。
もう歳だし詳細型はエネルギー使うしムリ!
これからはエネルギーをあまり使わない全体型で行こう!
そして全体型とは何ぞやと考え始めたとき
全体型はひょっとしたら私にはわからないもっと奥深い世界なのではないか
と気になりだした。
本当にエネルギーを使わないのか。
詳細型の私に全体型は「ざっくり要点だけ把握している」ようにしか見えない。
しかし何十年と全体型で生きている人たちは
果たしてそういった世界で生きているのだろうか。
行き詰っていた。
そんな時に、人からこれどうですかと言われて
時間をかけて分析する自分がいた。
さらにこれまでに得た詳細な知識と経験を使って
比較検証をし
徹底的に思考している自分がいた。
実に自然だった。
そうか、これが私なんだ。
このあり方でいいんだ。
有名なイケメンアーティストは
私には理解できない作曲性だとか個性だとか
何かで評価されているのだろう。
そう、私には理解できない何かで。
私の中(ビリーフ)にはない何かで。
とりあえず
全体型は意識するけれども
詳細やっぱりオッケーとなった。
それを確認できただけでも
大収穫の思考の旅だった。
整骨院の先生、ありがとう。
2024年9月
久しぶりにジャズピアニスト、上原ひとみの演奏を観た。
何度と観て分析するうちに
「粒度」という言葉が浮かんできた。
「粒度とは粒の大きさのことですが、
ビジネスでは、資料の説明量や仕事のタスクの大きさ、段取りの細かさを
粒子に置き換えたものです」(コトカワ/KOTOKAWAより抜粋)
使用例: 粒度が高い/低い
「粒感」と言う人もいるようだ。
粒感、これがピッタリきた。
上原ひろみは一音一音をまるで一粒一粒のように丁寧に弾く。
あれだけ早く弾いているのに、雑に扱われる音がない。
一粒一粒の音たちがまるでコロコロ心地良く踊っているようである。
まさにプロ技。
上原ひろみの曲には、時折クラシックや日本の楽曲の要素が入る。
彼女も私と同じように自宅近くのピアノ教室でクラシックピアノを習っていたそうだ。
ピアノはクラシックだけだと思っていた私は
上原ひろみを初めて知った時
嫉妬しかなかった。
私もジャズピアノを早い段階で知っていたら
もしかしたら
ひょっとしたら
上原ひろみのように作曲し、上原ひろみのように早弾きをしていたかもしれない。
でもそういった才能は天から授からなかった。
つまりピアニストになるという使命はもって生まれてこなかった。
だからピアノとは別の道に進み、今こうしてここにいる。
粒度は
言葉で表現する時にも使える。
今日は雨だ、やばい。
この焼き芋、やばい。
こういった表現は決して粒度が高いとは言えない。
では粒度の高い表現とは?
もっと細かく言えばいい。
すると粒感が立ってくる。
今日は朝から雨がしとしと降っていて、どうにも気分がすぐれない。
この焼きたての焼き芋はほくほくしっとり、初めて食べる触感でおいしい。
ただし、粒度を高くするには
その道に詳しくないと難しいことが今回わかった。
そして語彙力も必要だ。
私が上原ひろみを粒感で理解できるのは
ピアノで10年鍛えた耳があるからだ。
彼女の指の感覚、指を動かす筋肉の感覚、息遣いまで
感じることができるのは
ピアノに10年向き合ってきた経験があるからだ。
では例えば私が野球を観たらどうだろうか。
一度もプレイしたことのない私は
野球のことはよくわからない。
だから粒度の低い表現にならざるをえない。
あ、打った
あ、勝った
丁寧な粒感
これからの人生テーマはこれだな
と思った。
2024年9月
小学4年生の息子が割り算がこんがらがっていると言うので
教科書に沿って一緒に学んでみた。
87÷21を筆算で解いてみよう
という問題なのだが
なるほど教科書で解き方を順に学んでいくと
小1からこれまで学んだ要素がてんこもり。
「やり方」
1. 何の位に商がたつか見当をつける
2. 割る数の21を20とみて、商の見当をつける
3. 見当をつけた商の4を一の位にたてる
4. 割る数21と商4をかける
5. 87から84(上記4でかけて出た数)をひく
これが基本のルールになっている。
そこから発展して
仮の商を調整するやり方の説明が始まる。
もし仮の商が大きすぎると
上記の「やり方 4」で、商と割る数をかけると
出た数が割られる数より大きくなってしまう。
逆に仮の商が小さすぎると
あまりが割る数よりも大きくなってしまう。
だから正解を導き出すために時には
仮の商を大きくしたり小さくしたりといった調整も必要
とのことだった。
「数学とは論理的な思考力を養うもの」と
林修先生がおっしゃっているが
その正しさが大人になった今ならよくわかる。
私自身が小学生のころは、ただ計算のやり方を理解するだけで精一杯だった。
しかし、「論理的な思考力を養う」という見方で
算数に向き合ってみると
実に論理的で明確な世界だということがよくわかる。
ここ数か月私は「全体型 vs 詳細型」に取りつかれている。
詳細型の自分のあり方に限界を感じ
これからは全体型で生きようと思っていたところ
詳細型も捨てがたいということに気づいた。
全体型、詳細型を行ったりきたり。
そんな私が息子の算数を通して一番気になったのは実は
「仮の商」だった。
「仮の商」、これは全体だ。
ざっくり商を見当し(全体)
見当した商と割る数をかけてみる(詳細)
コミュニケーション業界では
人は「全体」→「詳細」の順番で説明されると理解しやすい
と言われている。
全体から詳細
小4の算数から
コミュニケーションの正しさまで学べた。
学びは深いな~。
2024年9月
10月8日、プレゼンテーションの日はきた。
10分間、仲間の注目を一身に浴び、ひたすらしゃべり続ける。
「終われば天国が待っています」
みんなを安心させようと、朝から最後のプレゼンが終わるまで
トレーナーは繰り返し、上の言葉を言っていた。
そして、皆は早く天国に行くために
1番目指してじゃんけんに参加した。
私もその一人。
5人グループで2番になった。
2番がいいなと思っていたら現実化。やった!
実は、この時じゃんけんに勝って1番になった人も
想定どおりの1番だったそうな。
「思考は現実化する」
私は2週間かけてプレゼンの準備をした。
スピーチトレーナーとして
準備期間も体験として味わいたかったからだ。
準備の流れ
1、自分の言いたいことを書き出す
2、書き出した原稿の推敲(ざっくり)
3、実際に内容をしゃべってみる
(頭で考えていたのと実際は大きく違うことに気付く
原稿の1文を言うのに、ここまで時間がかかるものかと驚く)
4、余計な内容カット
5、しゃべってみる
6、余計な内容カット
7、スマホの前で録画しながらしゃべる
8、動き修正
9、小道具を増やす
10、スマホで録画しながらしゃべる
11、zoomで録画しながらしゃべる
12、動き修正
13、舞台設定
14、zoomで録画しながらしゃべる
15、何度も録画、練習を繰り返す
16、本番
本番では10分以内で話すのが原則。
プレゼンの間、タイマー役の仲間が
5分前、3分前、1分前、10秒前と合図をくれる。
プレゼン自体、大きなミスはなかったが
仲間と比べて早口だったことは否めない。
小道具を使いまくったのも少々反則なような気がしたが
完全NGではないのでよしとする。
笑いも少々とれた。
プレゼンとはこういったものなのかと実体験できた。
完璧主義のスティーブジョブスが
何百時間とリハーサル&練習にあてていた理由がわかった。
準備期間の2週間生きた心地がせず
ひたすらプレゼン後のプレゼンから解放された世界を夢見ていた。
そして今、その世界を生きている、
時は確実に過ぎるのだなぁと余韻にひたりながら。
プレゼンテーションはNLPコース終了後に撮り直してTOPページに載せました。
ご興味がある方はご覧になってください。
2024年10月